横濱関帝廟の歴史
150年の歴史
(写真:関帝廟の建立―ファー・イーストThe Far East 第2巻第8号、1871年9月16日、横浜開港資料館所蔵)
ペリー提督が東京湾に来航して徳川時代が幕を閉じるとともに、日本の鎖国は終わりを告げました。その後まもなく、1859年に横浜が開港しました。多くの中国人が商人や職人として横浜に移住し、現在、山下町として知られる地区で暮らし始めました。1862年に関聖帝君の木像を祀る小さな祠が中華街の裏通りに建立されました。1871年には関東地方の華僑たちの寄付により、本格的な中国様式の関帝廟が建設されました。1886年に初代の関帝廟が拡張され、1891年にはさらに改築が行われました。
(写真:1910年当時の関帝廟―横浜開港資料館所蔵、1932年)
1923年の関東大震災により中華街は大きな被害を受け、関帝廟も倒壊しました。生き延びた人々は神戸や大阪に避難し、また広東や上海に帰国した人もいました。街が復興するにつれてその多くは横浜に戻ってきました。関帝廟の再建は中華街の復興のシンボルでした。1925年の秋、二代目の関帝廟が中華会館の裏手に再建されました。
第二次世界大戦中の米軍による横浜大空襲により、1945年5月29日に中華街は再び焦土と化し、関帝廟も焼失しました。戦後に再興の取組みが始まり、古材を利用して1947年の初夏、三代目の関帝廟が完成しました。
(写真:1959年横浜中華青年会による雙十節の獅子舞。)
1986年の元旦、再び災厄に見舞われ、関帝廟は原因不明の火災により焼失しました。関聖帝君、観音菩薩、および地母娘娘の像は奇跡的に無事でした。横浜関帝廟再建委員会が組織され、多くの人々の協力により、現行の関帝廟の再建が始まりました。本土出身の中国人建築士が選ばれ、装飾や建築資材は可能な限り中国から輸入されました。横浜、東京、大阪、神戸の 2000人以上の華僑が力を合わせ、再建のために 6億円 の募金を集めました。それまで関帝廟は中華街の裏通りに祀られ、参拝者はほとんどが地元の華僑でしたが、四代目の関帝廟はより便利な、地元の人も横浜を訪れる人も気軽に足を運べる場所に移ることになりました。火災の5年後、1990年8月14日に現在の四代目関帝廟は開廟式を迎えました。
(現在の関帝廟)